木の模型 想 像 図
甘 露 台
下二段のかんろだいは、明治15年五月十二日に 警察に没収された。その後、甘露台があった場所には、小石が積まれてあったという。
明治20年頃のお屋敷平面図
誕生
明治6年飯降伊蔵に作らせた模型のかんろだいを「出来てから暫く倉に納めてあったが、明治8年ぢば定め以降くらいから、「ぢば」に据えてあった。(『稿本教祖伝』P109)
甘露台 石 没収の理由の考察
甘露台の石没収については、『近代日本総合年表第二版』という本に、地元警察の弾圧を受け、礼拝対象の〈かんろだい〉を破壊され、その石材を没収される」と出ている。「総合年表」に記載されるほどの大事件なのかと少々驚く。『稿本』には、「五月十二日(陰暦三月二十五日)突然、大阪府警察部奈良警察署長上村行業が、数名の警官を率いて出張して・・・」とあって、なぜこの日に来たのかの理由は書かれていないので、日本の政治という大きな視点からその理由を考えてみた。
明治十四年十月十一日、天皇が北海道・東北の地方巡幸から帰るのを待って、御前会議が開かれ、翌十二日官有物払い下げ処分の中止、明治二十三年に国会を開くという詔勅が出され、同時に大隈の免官が発表された。これが「明治十四年の政変」と呼ばれるものである。
この詔勅の最後には、「若し仍ほ故さらに躁急を争ひ、事変を煽し、國安を害する者あらば、處するに國典を以てすべし。」という言葉がある。この詔勅が出た後にも、憲法や国会開設について勝手に論議する者に対しては、国力で弾圧するという方針を述べたもので、国民にたいする天皇の勅諭で、このようにあからさまな脅迫的言辞を用いたものは、後にも先にもこれ以外にないと言われている。
これを受けるように、反政府活動の取締りにあたる警察制度も、十一月二十六日の太政官達によって、各府県に府県警察の一切の事務の責任を持つ警部長を置きその警部長は、国の内務卿に直属することが決められた。
そして、翌明治十五年四月二十五日から、二週間にわたって東京で開かれた「警部長諮問会」において、集会・演説会などの取締強化、神事祭典などの取締方、酒密造取締の強化、各府県間の取締方の統一といった具体的な方針が決められている。
二十五日から二週間といえば、五月八日であり、大阪府の警部長は、大阪帰着後、府下の各警察署長にその取締の方針を達し、五月十二日、それを受けた奈良警察署長は、中山みきの屋敷に、数名の警官を率いて現われ、二段まで出来ていたかんろだいの石ほかを没収していったのではないか。
ぢばの位置