〈 窓なし倉といきすがた 〉について 窓のない倉に、普通の人間は息苦しくて入りづらい。 この門屋は、櫟本に嫁いでいた“こかん”さんが、3年の期限がきたので、 早く帰って来て、教祖と共に神の御用に着くために計画された関連の建物 といわれている。 月日よりやしろとなるを二人とも べつまへだてゝ(別間隔てて)をいてもろたら 筆9-5 しかし、思惑通りのものが出来ずに、この程度の建築になったと いわれている。 “いきすがた”という言葉を、教祖は次のようにも語っておられる。 明治18年6月29日(旧5/17) 神様の仰せ 此手入トゆふハ、百姓の一にたすけたさの咄し。・・・是ヲ誠トヲモエハ、 150歳が、180歳が、200歳も、いきたとて、やまずしなずによわりなきよふの 道ヲおしゑたい。 そふしてわかき年寄、男女にかぎらず。此道ヲつけて、此 いきすがたヲ こしらい、唐天竺迄の人ヲ参詣ヲつけて、是ヲみせて、よふきゆさんの くらしをさせたいとの神のせき込。 「山田伊八郎文書」御教祖様御言葉 敷島大教会編 s48 結局、親神の人間創造の主たる目的は、「よふきゆさん」するにある。 それを世界に示す第一人者が、こかんさんであり、つとめ人衆の面々で あったのではないだろうか? この尊大な神の計画は、現在も継続中であるはずである。 部屋に物理的な窓が無くても、この人たちには問題にならない。 |
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この「中南の門屋」の屋根には、十六弁の菊の紋章をかたどった瓦が 載せられている。 教祖が教えられたつとめ人衆の紋は、「月日の紋」十二弁の菊であったが、 何故、当時厳しい皇室の16菊が、敢えて載せられたのであろう。 いつ頃、誰のさしづで載せられたのでしょうか? |
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( 自 明治九年 至 同十六年 二階客間及土蔵 ) 御 教 祖 御 休 息 所 御 建 築 当 時 之 圖 「ひとことはな志」その 中山正善著(昭11.10.30刊) |