昭和11年内務省警保局(天理教関係資料)
昭和11年に内務省警保局でこのような資料が作られていたとは意外でした。昭和6年の満州事変以後、昭和16年の真珠湾攻撃までの間に、
日本が戦時体制をとる中で、天理教が、昭和11年に教祖50年祭、翌12年に立教100年祭を執行するなどし、お金と人の集中が起こり、体制側から見ると
危険な団体に映ったのかもしてません。(この間軍需景気で良かったのかも知れない。)
当時としてはかなり詳しく調べていたようです。是を読むと当時の雰囲気がよくわかります。しかしあまり表には出ていないようです。
今回このような資料が見つかったのも、神様のお働きかも知れません。当時の天理教を外から見た貴重なものではないでしょうか。
内 務 省 と は
明治初期から第二次世界大戦終結直後までの75年間にわたって,警察・地方行政・土木・選挙など内政全般を所管した中央官庁。
1873年(明治6)に大久保利通らの強い要望によって「国内安寧保護の事務を管理する」ところとして設置された。
自由民権運動の高揚につれて,言論・集会・結社の取り締まりを強化して政治警察的側面を強め,1883年,山県有朋が内務卿に就任,その官僚閥形成の
拠点となった。
1885年の内務省処務条例によって9局に整備され機構が固まり,1947年(昭和22)に占領軍の命により解体されるまで,天皇制官僚機構の中核として君臨した。
したがって内務大臣は内閣の中心的地位を占め,地方行政・警察・神社・選挙・土木・衛生・都市計画・地理・出版・著作権・拓殖などに関する事務を管理し,
北海道庁長官・府県知事を監督した。
また内務省警保局・警視庁・府県警察部を中心に地方制度をその支配下におき,治安警察法,治安維持法など諸種の治安立法の運用を通じて言論・結社の
取り締まり,選挙干渉・労働運動・農民運動など大衆運動の弾圧から,各家庭の大掃除,祝祭日の国旗掲揚の督励にいたるまで,国民生活の全般にわたって
強力な統制を行った。
【内務省警保局】内務省の最も中核をなすのが警保局であった。したがってその局長は,内務次官,警視総監とともに,内閣の重要人事として扱われる。
その事務分掌はいくたの変遷があったが,[1]行政警察に関する事項,[2]高等警察に関する事項,[3]図書出版および著作権に関する事項にまとめられる。
内務省警保局資料(PDF形式です。)
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内務省警保局史料
天理教の教義と搾取〈昭和十一年)
目 次
第一はしがき
第二天理教の教義と搾取
(一)教祖傳
(二)神観
(三)病理観
(四)布教上の用語
(五)所謂教義
(六)基本教義書
第三 天理教の組織と搾取
(一)教会組織
(二)教師資格
(三)信者に対する搾取
(四)教師に対する搾取
(五)教会に対する搾取
第四 祭典の執行と搾取
(一)儀式塾行
(二)両年祭の概観
(三)両年祭の意義
(四)両年祭の活動
(注意事項)
この資料は、昭和11年当時の文章ですので、内容には現在では非常に差別的な言葉、及び過激な内容が含まれています。
それ故にもし、この資料によりいかなる事が起きましても、我々は責任を負いません、個人の責任の上に置いて使用して下さい。