その後の針ケ別所村
提灯に、明治3年と記されています。
針ヶ別所村にある天輪王教の建物内部及び提灯
森本筑前守とは、吉田家入門以前にすでに関わりがあった。その一つが慶応元年の助造(本名今井新次郎)事件である。
針ケ別所村助造なるもの二月斗かり地場へ参詣なし居りしが、遂二妄説を唱え、天理王命本地ハ針ケ別所なりとて、近方の村民を瞞着せしニ付、
教祖自から取り沸ひた
御出張遊バされたり、其随行ハ飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎、岡本重治郎、山沢良治郎等なり。(中略)其 先方ニハ金剛院部属となり居たれバ、
奈良より金剛院を迎へて談判せんとせり。金剛院ハ乗物ニのりて来る。
此方ニハ守屋筑前守は吉田神祇管領部属ニして、大和一国の取締なれバ山沢良治郎氏は守屋の使ひなりとて(守屋氏が承諾得て来たりしもの)
談判せらる。〔中山新治郎「教祖様御伝」(「復元33号」P219〜221)〕
このように、山澤良治郎が森本の代理としてきている。教祖が助造に対して取り払いを命じた理由は明らかだが、この時、なぜ山澤は森本(後に守屋)の
承諾を得ることができたの
だろうか。それは、さきに触れた通り、森本の廃仏活動と関係があると考えられる。
森本にしてみれば、この争論は第一には祭祀争いであり、どちらが本地であるかについての争論である。
しかし、それだけでなく、一方が仏教の影響を受けている点で、
森本の活動の中心であった廃仏運動に関わっている。つまり、助造が金剛院から許状を受け、仏教の支配下になり、本地を唱えるからこそ、
森本筑前守の応援が可能になったのである。
このように、天理教と森本筑前守の接近は、天理教としては仏教等の既成の宗教からの迫害を防ぐために有効であり、逆に森本筑前守にとっては、
吉田家の支配拡大として、また仏教との対抗姿勢の中で生まれてきたものであったのである。
『教祖とその時代』「吉田家の大和国の神職支配と天理教」(幡鎌一弘著)P130より
しかしある方がおっしゃるには、助造が教祖に神名だけは唱えることを許してくれといって許されたという話が伝わっていると、聞きました。
提灯の文字
明治三庚午年八月 三木氏
天輪王 郡山藩 岩平氏
正祭九講ノ門
此続 七人