「赤衣」   (半纏のもの)  
        教祖は、明治7年12月26日(陰11月18日)77歳の時、親神の思惑をいよいよ上・ 高山(為政者)へ積極的に
        伝えるべく赤衣を召された。奈良県庁の呼び出しで円 照寺に出張、帰ってからのことである。

        このあかい(赤い)きもの(着物)をなんと(何と)をもている(思っている)
        なかに月日(つきひ)がこもり(籠もり)いるぞや   ふ6-63

        また、一般には信仰の目標として、赤衣を着して「おたすけ」をするよう促された。
        この半纏の赤衣は、明治11年、奈良県生駒群平群町に住まいしていた熱心な信者、仲尾休治郎の講に渡
        されたものを、講中のI氏が貰って今日に引き継いでいる。
        包紙には、“明治十一年寅五月十九日 御月日様より仲尾休治郎他六名御下被下”とあり、当時教祖を
        「御月日様」(おんつきひさま)と称していたことがうかがえる。

                   参考1 仲尾休治郎について 「稿本天理教教祖伝」P142

                      2 「稿本天理教教祖伝逸話扁」136“さあ、これを持って”P227

           教祖が、監獄からお帰りになった時、お伴をして帰って来た仲田儀三郎に、監獄署でお召しになって
           いた、赤い襦袢を脱いでお与えになって、
           「さあ、これを持っておたすけに行きなされ。どんな病人も救かるで。と、
           お言葉を下された。儀三郎は、大層喜び、この赤衣を風呂敷に包んで、身体にしっかりと巻
           き付け、おたすけに東奔西走させて頂いた。そして、
           なむてんりんわうのみこと なむてんりんわうのみこと と、
           唱えながら、その赤衣で病人の患うているところをさすると、どんな重病人も、忽ちにして御守護を頂いた。