[おことわり]
この文書は、表題の横に明記されている通り、昭和42年2月10日、すなわち今から36年前、全天理教会に配布されたものです。
前文「この小書を贈呈するに当たって」の筆者は、当時、教内外に名を知られた著名な教会長でありますが、ここでは関係者のプライバシーに留意して
匿名といたします。筆者の名前よりも内容に価値があると思うからです。
後半の本文「50年後の天理教を想う」は、当時仏教関係の雑誌に掲載された随想を転載したものですが、50年後まで12年を残す現在、天理教の実情を
あまりにも正確に予測されていることに驚異の感を深くするのです。
このたび、その一冊を入手することができました機会に、ネットを通して公開いたします。
全教会に配布された文書ですから、スタッフ独自の判断で再公開しますことを了解して頂きたいのです。
文書の内容は次の通りです。(筆者は匿名とし、原文のまま復刻します)
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50年後の天理教を想う
天理教○○員 ○ ○ ○ ○
(昭和42年2月10日刊 全天理教会に配布す)
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この小書を贈呈するに当たって
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今から30年前、父は単独布教から部属教会21ヵ所をつくって、当時の旧制分教会長として、65才で出直したのであるが、父は晩年最後まで、自分は
御本部の庭掃きでも勤めさして頂きたいと、心から言い暮らして出直しをした。
一昨年の12月、母は91才の高齢をもって出直したのであるが、毎日往診に来ていた医師も奇蹟だというほど、一日一日を保っていた。そしてその最後の
出直しの日、私は教会長として母の枕元に坐った。最後のお授けを取り次がせて貰ったのである。
あるいはこれが母との今生の別れになるかもわからないと思うと、70才に近い身でありながら、子としての感情がこみあげて来る動揺を、一切神に凭れて、
平静に平静にと自分の心を抑えながら母に言った。
「お母さん、今お授けを取り次がさして頂きますが、もう一度身上を貸して頂きたいとはお願いいたしませんよ。
神様の御思召しのままに御守護下さいませとお願いいたしますよ。しかしお母さん、もしも出直しをされても、また○○の教会に生まれかわって来て下さいね」
母は床の中で合掌したまま、いとも安らかな表情で、「それが一番の楽しみだよ」 と小さい声で言った。
平静に平静にと努めていながらも、お授けを取り次ぐ私の両眼からは、熱い涙がとめどもなく流れた。
そうして、そのお授けが母との最後の別れとなったのである。
何回生まれかわって来ても、道の御奉公一念に撤しきっていた母であり、それがこの世における何よりも一番の母のたのしみであった。
およそ道の子として親里を慕い、道を想い、したがって道の最高の親たる真柱を愛さないものが、一人でもあるだろうか。
私は道の子である限り、そうしたものは一人もないと信じる。
かつて真柱は、天理教を一番愛しているものは俺だとおっしゃったことを聞いたことがあるが、私もそうだと思う。
真柱ほど、教祖様の理想実現に想いをこめられていられる方はあるまい。
しかし真柱を愛し、真柱への一番の親孝心とは、当面の真柱の御機嫌を伺い、真柱の御機嫌に終始することでは絶対ない。
いかにして一日も早く教祖様の御理想である陽気暮らしを世界の人類にもたらすかにある。
しかるに本教の現状を見る時、輪郭の美は非常な勢いで整って来ているが、教祖様の理想である助け一条の陽気さは、声のみ大きくしてその実力は
教祖40年 祭当時より、その信仰の熱度において、信徒の量において、むしろ低下しているのではなかろうか。
私は先般、宗教史専攻の東大教授笠原氏とお逢いして、いろいろ御意見を伺ったが、現在伽藍宗教といわれ、わずかに旧蹟として世の観光者によって
命脈を保っている数多くの仏教本山の、最盛期から衰退に及ぶ当時の仏教と本教の現在とが、そろそろ似て来たような感じがしてならない。
もちろん、本教はそこまで下落するとは思わない。しかし、宗教の一番の生命である人の救いにおいて、現勢とあまり変わりのないようなことであったら、
それこそ教祖様に対し、真柱に対し、どこに親孝心といえるだろうか。
先般挙行された教祖様80年祭は、道の子の想いに想った親の年祭だけに、本教史上かつてない盛大な式典であり、天候にもめぐまれて終始されたことは、
われわれ道の者にとっては嬉しい極みであった。
しかし、あの170万人といわれる祭典への帰参者の中、本当に教祖様を慕い、親里を信じて帰参した道の子は、果たして幾人あったであろうか。
当時の集会員会では、約30パーセントの声が出ていたが、その他はそれ等の人たちに勧誘されて、地場を踏んだ観光者たちである。私はけっして
これを悪いというのではない。たとえ本人は単なる観光のつもりで来たとしても、やがては大きな匂いがけとなるからである。
ただ私は、ここでもし道の指導者である教会長級が、あの姿そのままが現在の道の教勢の実力と誤り信じた場合、それこそ最も恐ろしい危険さが
ひそんでいることを憂える。
仏教の衰微した当初の原因が、当時の仏教幹部たちが、その当時の形の上だけの盛大さに囚われて、そのままを本山自体の信仰の実状と思いあがった
誤りからはじまっている。
東京にある一流教会の婦人会と青年会の共同主催の座談会が開かれた時のことである。某教会所属の最も熱心な婦人教会長の質問であったが、
「先生、われわれは天理教貴族をつくるための信仰であるならば、私は道の信仰を直ちに止めます……」 と熱烈な口調であった。
私は貴族的とは、その人の人間としての価値が、その人の生活以下であった場合に起こる現象だと思うのであるが、教祖様ほど民主的に徹底された方は
ないのではあるまいか。
物貰いに来た一乞食の赤児を抱きとって、御自身の乳房を含ませられたあの御態度こそ、教祖から示された本教としての全人類に対する行き方である。
もちろん、つくし運びは本教信仰上の真理であるが、それはあくまで陽気さの上に立ってのつくし運びでなければならない。
どんな身上事情の苦しみの中でも、あくまで陽気さだけは失わない指導こそ、用木の使命だと思う。そこにこそ天理教の魅力が生まれる。
最近のある仏教関係の雑誌に、最近における本教の批判記事が載っていた。もちろん仏教関係の雑誌だけに、天理教的の記述ではないが、私はこれを読ん で、本教の指導者階級にも読んで貰いたいと思った。是非一読しておく必要があるとさえ思った。
これが、「50年後の天理教を想う」と題してこれを転載し、この小書を全国の指導者の立場にある皆さまに贈呈させて頂く所以である。
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50年後の天理教を想う
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昭和20年の敗戦とともに、天理教は、他動的に国家の宗教政策の制限から脱して、立教以来、はじめて自由な天地に出た。
多くの人がなお混迷と虚脱の境にある時、中山真柱は直ちに「復元」を打ち出し、これを教団最高の方針と定めるとともに、原典のみにもとづく
天理教教典の編纂に着手した。
「復元」とは、要するに、教祖の教えの本来にかえれということである。これはまず教理面からはじまり、現在の教典が24年に公布、つづいて31年には、
本部の正式の編纂にかかる「稿本天理教教祖伝」が完成、これで、教理の基本コースは確定した。
だが教団の組織、実態の復元はどのようにすすめられているだろうか。
これに関する構想は、具体的に明らかにされていない。私の推測によれば、組織を一挙に改変することなく、まず組織の内容を形成する信仰を統一し、
向上させ、その成人を待って、次第に理想に近づこうという、現実的な方法論がとられているかに見える。
まず破壊してまったく新しい組織をつくろうというのではなく、漸進的で、あいまいな面が強い。新しいものはほとんどないといってもよいかもしれない。
この復元の実行は、教祖60年祭、70年祭、そして昭和41年の80年祭を軸としてすすめられたが、この歩みの中で、教理的には「ぢば」中心主義、組織的には
「ぢば」にある教会、すなわち教会本部絶対主義の方向がすすめられた。こうして、真柱の絶対権威は高まり、施設はいよいよ本部に集中した。
そして教団の動きは、本部の方針が打ち出されてのち、それが地方に伝わり、時をおいて次第に実行されるという、上から下へ理を流すという姿が
強化された。
この本部中心の権威と統制力は強固なものであって、かつての茨木事件のように、大教会が本部に異を唱えて離反するという事態はもはや想像もされない。
大西愛治郎のように、天啓によって自分が「かんろだい」であると称するような人間も出て来ないであろうし、かつての大平良平のように、教理の純粋化を
求める運動も、その存在理由がなくなってしまった。
では天理教は、もはや、異端を生むべき条件も必然性も皆無であろうか。それほど天理教の方向は安定し、完成しているのであろうか。
私には、そうは思われない。
教理的にも、組織的にも、整然として統制がとれているかに見えるが、燃え上がる信仰情熱、内的エネルギーは、衰弱しつつあるのではないかと思われる。
この内的エネルギーの衰弱は、異端が出ることよりはるかに危険な徴候であると見なければならない。
復元は教祖の理想に照らしてみて正しく、その努力が20年以上にわたって行われているにもかかわらず、その実が思うようにあがらないというところに、
現在の教団の最大の悩みがある。
教理面では、神一条の信仰が事あるごとに下部組織へ向かって流され、講習会も大規模に、かつ根気よく開催されているけれども、その浸透は、
まだ本当の心の深い部分へとどかない。そして、多くの人の信仰の実態は、あいもかわらぬ病気たすけ、御利益信仰の域にとどまっている。
それだけではない。復元の教理を説くべき立場の人の間に、早くも教理の固定化、ドグマ化という現象が生じている。これでは、造花のようにととのっていて
美しいけれども、悩んでいる人を救う本当の力を欠くことになる。
戦後、天理教信仰の目的は、陽気ぐらしであると宣明された。これはたしかに教団の隅々まで知れわたったが、それは言葉の空転で、実際は陽気ぐらしと
相去ることはるかに遠いものがある。
組織面では、世襲制によって主な人事は固定化し、明朗で公正な競争がなく、20年先の構成が大体わかるという具合である。
これを動脈硬化症と呼ぶ人もあるが、青年にとっては、これは甚だ意欲をそぐ原因となるために、多くの有為な若人が、自分の能力をフルに発揮できる
新天地を求めて教会の門を出てゆく。天理教は、かくして人物経済上、大変な損失を重ねている。
(注:このことは将来の天理教にとって、何ものにも代えがたい一大損失である)
それほどの能力も気力もないものは、安易なプチブル生活の地を求めたり、漫然と教団の中に生きているだけで、教祖の精神を喪失している。
教会の後継者が少なくなりつつあるという現実は、前途の楽観を許さぬ事実である。
極言すれば、天理教は、理想は高く、本部は壮大なのに逆比例して、信仰のエネルギーが低下し、人間は卑小となり、求めるものが物質的、形而下的に
なっているのが現状である。
私は異端を待望する人間ではない。けれども、空洞をもつ大木になりつつある現状を放置する時、おそらく天理教は立教の宣言にふさわしい世界宗教として
脱皮することは不可能であると思われてならない。
ここに思いきった信仰と行動力を持つ異端的人物の登場を待望するのであるが、この種の人間は果たして出て来るであろうか。
出て来るとしたら、どこから出て来るであろうか、本部からそういうラディカルな人間は現れないであろう。
青年会にしても、その本部は、失敗を恐れぬ不屈の精神に欠けているから、これも期待薄である。最も有望で有効であるべき文書の面ではどうかというに、
溌剌とした昭和初期の個性と自己主張の時代は去り、自由な批判精神は失われ、真柱の亜流ばかり増えている。それも真柱の打ち出す復元の教理を完全に
マスターした上、自分の独創を出してゆくならよいが、顔色をうかがって書いているような感がする。書く姿勢がおかしい。
これでは真に世に訴え、人の心を揺り動かす大文章は生まれてこない。本来ならば、何がなんでも訴えねばならぬ問題が山積しているのに、
筆を執ることをなるべくなら避けようという傾向が強い。この面でも退潮と衰微の感はまぬがれない。
このように見てくると、天理教は深刻な危機に立っている。人類全体が危機に立っている以上、天理教だけが安泰であるべき道理はないが、
この二つの危機を認識する度合の深いものこそ、現代と次の時代をになう人間像である。
天理教は、短いとはいえ、教祖没後80年の歴史を持っている。この80年祭は、生命も財産も名もいらぬという強い信念の持主によって
築かれて来たものである。この種の人は今も数多い。こうした行為を天理教では伏せ込みといっているが、これある限り、教団は容易なことではビクともしない。
けれども、教団がビクともしないことが理想なのではない。真に人類の苦悩に応え、それを救済するために、教団はどんな犠牲をも辞さないというのが、
本当の伏せ込みである。私が待望するのは、この種の大勇に生きる人間であり、これは、教団の保守的な側から見れば、異端と映るであろう。けれども、
社会はその異端を望んでいるのではあるまいか。
大正の末頃、増野道興は、天理教の海外伝道の可能性について、次のような演説をした。
日本中に布教を終え、その余勢をもって海外伝道をすべしという論は、正論に似てその実きわめて皮相的である。そんな甘い考えで事が成るものではない。
天理教が日本で大いに圧迫され、禁止され、食って行けぬ時代になって、やむなく新天地を求めて海外へ大挙して出て行く。こういう時、海外伝道の道は
開けるであろう。天理教は神の道であり、神の道は人間の欲を徹底的に排する道である。しかるに世人は欲の世界で生きている。
天理教徒が欲を離れ、人にも欲を離れさせる生活を徹底して行った時、神の道と人の道は必ず矛盾すべきものである。
その場合、世間と政府は己れを是とし、神の道に生きるものを非として圧迫するに至るであろう。私は何をいわんとするか。
どこまでも神の道に撤し、ために世人の非難攻撃を受けるに価する天理教を待望するのである。欲のある世人からほめられる天理教は、畢竟神の道とは
無縁のものである。これでは日本の人心改造も、海外布教も成るものではない。
筆者のいわんとするところは、この演説の中に尽きている。天理教は、現代、社会にいい子になろうとしており、また多くの人々は、
組織の中でいい子になろうとしている。ここに問題がある。
明治20年の1月、教祖が姿をかくされる直前、政府の弾圧をおそれて、お勤めをすることをためらっている側近者に対して、教祖は「律がこわいか、
神がこわいか」とせまり、さらに「律ありても心定めが第一やで」と明示された。これが天理教最大の指針の一つである。
現在天理教は、新憲法のもと信仰の自由を保障されている。一切の弾圧はもはやない。律と神とは鋭角的に矛盾はしない。
けれども、律そのものがなくなったのではない。今や律は教団の中に存在している。それは、明らかに人間の心のつくりあげたものであって、天理教の中に、
一般社会の常識や約束事、すなわち人間思案が多くなっているのである。何はさしおいても、この教団の中の律を打破するのが物事のはじめである。
ソクラテスはにくまれ役を一手に引き受けた。アテネを愛する彼は、アテネを巨大な牛に譬え、それが眠りこけないように、自分がアブとなってうるさ
く耳元で音を立てるのだと自負した。彼は不幸にして、牛の尻尾で叩きつぶされる羽目になったが、現在、私のもっとも待望するのは、このアブ的人間である。
これが、差し当たって出現の可能性があり、しかもきわめて重要である。
大なる異端像が現れるほど天理教は成熟していない。けれども、天理教は自己にとじこもって眠っていてよい時ではない。
眠りこけていたら、社会はさっさと天理教を見捨てて行くであろう。
差し当たって、アブ的人間が多く現れること。そこから一人のソクラテス的人間が出現することを私は期待する。